一般社団法人
NERV
Nippon Emergncy Relief Volunteeractivity
2012年7月8日
店内作業場の清掃も終わり記念写真です。
この地区は現状では住むことも商売をすることもできない微妙な位置づけの準備区域というやつですが、必ずここで復興と言う強い信念でこれからもがんばるとオーナーさんも言っておられました
南相馬市小高区にある洋菓子屋さんです。
ここはシュークリームがとても美味しかったそうで遠方より買いに来る方も多かったそうです。
店内は当時のままで作りかけのケーキや商品棚のケーキ等が・・・・
2012年7月2日
林道を走り飯舘村まで行きました。
放射能の測定とサンプルの採取を行いました。
写真は飯舘村と南相馬市の境の看板です。
しかしこの後泥濘にはまり危うく遭難しかけました。
予算があれば山用の車がほしい
2012年7月1日
小高区沿岸部の民家です。母屋と新築途中の家屋が津波の被害を受けていますが、新築途中の家屋を完成させこの地に戻って着たいと仰っていました。
その時の依頼者さんとの記念写真です。
2012年6月29日
ダムへと繋がっている砂防ダムで放射能の測定とサンプル土壌の採取を行っているところです。
瞬間的に多量の放射線を浴びるわけではないので防護服は要りません。
空間線量4.32usv/h〜9.68usv/hです
2012年6月17日
南相馬市生活復興ボランティアの受付です。
原町区で活動している団体がリピーターや新規の方が少ないとテレビで言っていましたが、鹿島は多くのリピーターの方と都心からの団体の方々で運営している感じですね。
2012年6月13日
バリケードから先が浪江町です。
浪江町の野良牛の糞を測定したところ、糞でさえ2万ベクレルを軽く超える数値。
癌や放射線障害などで苦しんで死ぬのと処分はどちらが良いのかと考えてしまいますね。
浪江町と南相馬市の境にある牧場です。
確かに牛の処分は可哀想だが野良牛が起こす事故や民家荒し等の責任は誰が取るのでしょうか?
元飼い主?自称愛護団体?国?
道路等の空間線量を測定している時の写真です。
測定器は小学生の頭の位置を想定した高さで測定を行っています。
地表に比べ数値は低くなりますが、植木や雑木林等場所によってはとても高いところもあります。
2012年6月10日
立入禁止区域ぎりぎりの山岳部にある農業用水用のダムです。
この辺りの土壌は飯舘村や立入禁止区域と並ぶほどに汚染されていました。
国の除染は土木産業を潤すだけの表層的なもので意味の無いことがここからもわかりますね。
2012年6月6日
この慰霊碑からは山の向こうに原発が見えます。
浪江町沿岸部の請戸にある慰霊碑です。
一時帰宅のときにしかくることができない慰霊碑ですが、多くの方が訪れております。
札なしの牛を何頭か確認したので繁殖しているのかも
復興の思いを胸に一時帰宅した人の家を酷く荒し自殺や無気力など様々な問題を出しています。 処分はかわいそうですが、事後責任の取れない自称環境保護の自己満足行動は多くの方に多大な迷惑をかけますね。
野良牛と遭遇しました。
どこかの環境保護団体を名乗る輩が、立入禁止区域に不法に潜入し勝手に逃がしたとのことです。
この牛が民家を荒らしたり工事車両と事故を起こしたり、一部の自己満足者のおかげで大きく甚大な被害が出ています。
人も車もいませんが信号機と看板は当時のまま動いています。電機が戻ればこれら機械は通常運転・・。
なんだか変な空間ですね。
人はいませんが覆面パトカーや警察車両が多数巡回しています。
看板の安心して暮らせるがこの状況下では・・・・・
因みにこのあたりの空間線量は低く気にするほどではありません。
しかし高速道路を境に極端に染料が上がります。
あの辺りは流石に危険だと感じます
立入禁止になったその日のままの状態です。
自転車が放置されています。
JR浪江駅です。
普通に運行しているような雰囲気がありますが、完全に無人です。
JR桃内駅の次の駅でもあります。
まるで映画のセットのような街になってしまっています。
建物も道路もあるのに、荒れ放題で人の気配は全く無く野生化した様々な動物がそこらじゅうにいます。
給食当番のような格好をして作業しました。
しかしこの服自体には放射線を防ぐ能力は無く、放射線を含む埃等が直接付着するのを防ぐ目的で着ています。
服は受付時に配布されています。
高速道路の直ぐしたから撮影しました。
この高速道路は2011年3月末に開通予定でした。
開通後に震災だったらもっと早く支援ができたかもしれませんが、震災時も使えなかったわけではないと思う方も多くいるようです。
立入禁止区域の浪江町です。
一時帰宅で家の中を片付けるということだったので支援に行きました。
一年以上手入れをしていない庭は荒れ放題です。
ガレージは牛の糞だらけで荒れていました。
2012年5月27日
防波堤にある看板です。
これだけの被害が出た今この看板の言葉がとても重く見えますね。
下の写真では大きさが伝わりにくいので車を入れて撮影しました。
車と比較するとその大きさが良くわかります。
いったい一個何トンあるのだろうか
下の写真の防波堤の中です。
防波堤の内側には道路が走っておりトラックでも余裕で通れる程の道幅でした。
津波によって破壊された防波堤です。近直解体が始まるので撮影しました。
小さく見えますが防波堤したの袋は1.5M程の高さの1t袋です。
防波堤自体も高さ15mぐらいあります。
2012年5月25日
除染下学校のグランドです。湿ると足の裏にへばりつくような土でグランドとしては機能していません。
手前の山は剥ぎ取った表層部分が埋めてある穴のふたの部分です。
奥の茂みは空間線量高めです。
あくまで除染は敷地内のみ
このモニタリングポストは除染した敷地内にあり殆ど数値が動きません。道を一本挟んだ向こう側の茂みでは空間線量が1.89Usv/h〜4.59usv/hぐらいあります。
国の発表は大体こんな感じのとこの数値です。
政府の行った除染モデル地域の小学校です。
モデル地域といっても学校の敷地内のみです。しかもモニタリングポストは除染した上にコンクリートの土台に乗っています。なので空間線量はモニタリングポストのみ低く出ています。
2012年5月19日
小高駅直ぐ近くの双葉旅館さんの復興支援を行いました。
震災後立入禁止になり雨漏りの修復ができなかったため、畳等にカビが生えてしまったので撤去し掃除しました。
作業終了後に依頼者さんとの集合写真です。
立入禁止が解除されたとはいえ原発の影響が少なからずあるこの地域に、これだけの方が着てくれることにはとても感謝です。
ここの他に自己の思想で運営活動している方がいるようですが、そことは大違いの雰囲気でしたね。
南相馬市生活復興ボランティアのボラセンでの一枚です。
参加者の多くはリピーターの方で、常連の方がとても多くいらっしゃいます。
参加者自体は他の地域に比べ少ないですが、熱心な方が多くこられていることに感謝です
2012年5月18日
レクリエーション終了後に記念写真を撮りました。
スタッフが何人か混じっていますが解りにくいですね。
皆さん元々は農業をしていた方々なので、とても元気でスタッフの方が疲れ気味でした。
仮設住宅で行っているサロンの写真です。
この日は高齢者の方を対象としたレクリエーションを行っています。
2012年5月17日
被災地だからのアングルです。普通は下りてはいけない場所から撮影できます。
廃墟等と一緒で危険などなどに関しては自己責任となるので、観光気分で写真を撮ったり勝手に入り込んだりすることはやめましょう。
線路の上にも弦が生い茂っています。
線路自体は赤くさび時間の経過を物語っています。
建物自体にはダメージは無く今にも電車が走ってきそうな感じでした。
JR桃内駅に来ました。
現在この路線は南相馬市の原ノ町駅と相馬駅以外は不通となっています。
ぱっと見きれいに見えますが、そこらじゅうにクモの巣や弦植物が生い茂っています。
防波堤から水田の方へと流されたテトラポットです。
この向こう側に水没した集落があります。
破壊された防波堤です。
左奥のテトラポットの向こう側はもう海です。
サーフィンが盛んだったことだけあり凄い波が来ていました。
防波堤の破損と地盤沈下、ポンプ施設の破壊により沿岸の集落の一部が水没していました。
たまっている水は雨水でも川の水でもなく海水です。
民家も津波により傾いています。
下の写真のさらに右側です。
国道より沿岸部の水田は大体こんな感じになっていました。
放射能の関係で立入できるようになった後もこういった瓦礫類は移動が困難のようです。
自衛隊の方々が水田に散乱した瓦礫を一箇所に纏めて行ってくれたようです。
津波後一年以上放置されています。
奥に見える民家も津波の被害を受けていますが、原発事故後数日で立入禁止となったため当時のままの状態になっていました。
震災後一年以上立入禁止になっていたため山の斜面のコンクリートも当時のままになっています。
この辺の空間線量は1.4usv/hです。
沿岸部は山岳部に比べ急激に空間線量が低くなります。
下の写真の付近の土壌を測定した写真です。
空間線量9.27usv/h
測定時間257秒で誤差1%以内です
257秒の間に4548cp(放射線を浴びた回数)
測定機器は日本製でガイガーミュラー管を使用した測定器です。
かつての主要幹線のひとつに設置されたバリケードです。勝手に立ち入ると罰せられると書かれています。
因みにこの付近の空間線量6.8usv/h〜8.98usv/h
一応国の定める年間50msvの地域になります。
立入禁止区域との境目にある道には全てバリケードがしてあります。
窃盗団や不審者や自己中な人が勝手に入れないようになっていますが、脇を無理やり抜けたり歩いて入ったりクレーンで退かしてはいる輩が偶に要るようです。
一ヶ月ほど前に原発より半径20km圏にある南相馬市小高区が準備区域となり立ち入りができるようになりました。
この写真は小高区内の原発10km圏との境付近にあるバリケードです。
2012年5月13日
某アニメと同じアングルで撮影してみました。
山と湖の感じがアニメと似た雰囲気ですね。
某特務機関本部に立ち寄ってきました。
限定お土産も購入
2012年5月8日
気仙沼に行ったときの写真です。
気仙沼の風景は震災から一年以上たちますが、瓦礫がなくなっただけでそれほど変わっていない感じでした。
被害が大きすぎで一部ずつしか復興が進んでいないのが現状だと一緒にいた方々も言っていました。
2012年5月7日
下の写真の反対側です。
以前掃除した美容院の跡地は駐車場になっていました。
以前瓦礫撤去を行った建物です。すっかり建物を撤去して何も残っていませんが建物の基礎だけが残っています。
2012年5月6日
鵜住居地区の畑の瓦礫だしです。
瓦礫の分別と草刈も同時に行いました。
依頼者の方々だけでは農業機械無しではとてもできないので助かったと仰られていました。
画面中央にわかりにくいですが猫が昼寝をしています。
この一時保管所に住み着いている猫のようでした。
2012年5月5日
震災から半年以上の間陸地にいたアジアンシンフォニーの船ももういません。
当時は画面中央ぐらいの海岸に乗りあがっていました。
ユーチューブと同じ感じで撮影してみました。
当時と比べ全く違う場所のような気がしてしまいます。
ここに来るまでの間に何箇所か非難道路の崖が崩れていました。
11月・12月に瓦礫撤去と清掃で入った現場です。
建物は解体され基礎部分だけが残っています。
手前の部分は最近工事のために埋めた部分です。当時は完全に海に中に傾いた上体で沈んでいました。
レストハウスの傾いている側はこんな感じです。
かなり深く海に沈んでいる感じですね。
根浜海岸レストハウスと看板が付いていたものが殆どはがれています。
建物自体も大きく傾き半分海の中に沈んでいる状態です。
根浜海岸のレストハウスです。
ここも直に取り壊しが始まるようで周りを埋め始めていました。
こういった当時の状況がわかる建物は残してほしいと感じることもあります。
ゴールデンウィークでしたがこの人数です。しかしほぼ全員常連のボランティアの方です。
どこかの団体みたいにネームバリューで集客し上辺だけの軽作業をボランティアと称しているとことは正反対ですね。
瓦礫の掘り出しと平行して畑作りの手伝いもしています。
趣味農園ということでしたが、こうやって家などを流されたけれど、もう一度以前のような生活に戻ろうとする方の支援はとても重要だと思いました。
ボランティアセンターに依頼のあった畑の瓦礫だし作業です。
大きな瓦礫はありませんが土の中に細かい瓦礫くずがありました。
また集めてあった混在瓦礫を分別し処分場に運びました。
2012年5月4日
奇跡の一本松直ぐ近くの国道沿いにあるガソリンスタンドです。ここも完全に津波で破壊されていたところを直し営業を再開していました。
都心部に比べて若干高かったですが、こういったところで率先して給油し地元にお金を落としていくことも必要だと思います。
工事が進んでいるとはいえ当時のままの状態になっているところも数多く残っています。
この日は悪天候でしたが、私たち以外にも多くの方が訪れていました。
奇跡の一本松の撮影をしてきました。
周りの防波堤の修復も進むとともに、周りが瓦礫の仮置き場になっているからか重機であちらこちら直していました。
街の商店街でも多くの場所が冠水していました。去年の10月の大潮の時のようです。
行政の一時凌ぎ的な主要幹線道路の底上げではこういった冠水には対応できず、かえって排水できない状況になっているようでした。
もの凄い勢いで山側から水が流れてきています。
この道を徒歩で昇るとなると相当危険ですね。
この後非難道路の具合を確認しに行きましたが数箇所で崖崩れがおきていました。
行政は緩んだ地盤の補強等も行うべきだと強く感じました。
大雨の影響により山側から滝のように水が流れ道路が完全に冠水しています。
また低気圧の影響もあり、地盤沈下が進んでいるこの地域では山からの水と海からの海水が混じる感じになっていました。
2012年5月2日
下の写真と同じく非難道路からですが、当団体でも清掃や瓦礫撤去に入った家屋の取壊しが終わり更地になりました。
今後の計画も未だ決まっていない中で復興という名の街再建はどうなるのか心配です。
ユーチューブなどの画像と同じ場所での定点撮影です。
次々と半壊全快した家屋が取り壊され、当時の面影が残る建物も殆どなくなってきています。
2012年05月01日
岩手県遠野市にある団体の活動に参加してきました。
これだけ多くのボランティアの方がおられると見知った顔がどこにいるのかわからなくなりますね。
まぁ〜良くも悪くも地元の方・被災者の方の噂どおりの団体でしたね。
2012年04月30日
下の写真の仮設住宅の駐車場にて撮影しました。
去年の今頃と違い、花見を楽しむ方や元気よく走り回る子供たちの姿を多く見かけました。それだけ平穏な日常が戻ってきたのかもしれませんが、復興にはまだまだ長い道のりが続きます。
2012年04月31日
釜石線小佐野駅の近くにある仮設住宅入り口に多くの桜の木の中を泳ぐ鯉幟を見つけました。
都心では見たこと無い光景ですね。
2012年4月30日嬉石地区から旧釜石警察署方面を撮影したものです。
都心部では桜は新芽が美しい緑でしたが、こちらはやっと桜が開花し見ごろになっていました。
去年の今頃もおそらく桜が咲いていたのでしょうが、花を愛でる余裕等全く無かった気がします。
2011年09月19日
下の写真の寄せ書きが展示してあった会場です。
多くの方が自分の思い出の写真や、親戚友人等の写真を探しに訪れていました。
プレイバシー等の点からこの写真の画像は画質を落として展示します。
この写真は、岩手県大槌町にあった被災した写真や記念品等を洗浄し展示して持ち主に返していく活動をしていた場所に飾られていました。
映画サマーヲーズのキャラクターですね。
一人一人の力は小さくても多くの仲間と協力することで何とかなる気がしました。
2011年12月11日
午前中の瓦礫の固ず家を終えて現場の横で七輪を使い昼食を自炊しているところです。
料理経験の豊かな方が着てくれていたのでとてもおいしい昼食を楽しみました。
3月や4月のボランティア風景を思い出します。
2011年12月8日
当団体に参加したボランティアみんなで宿泊場所の縁側でBBQをしているときの写真です。
楽しい仲間でその日の作業のことや色々な話題で楽しい時間をすごすことができました。
2枚下の床屋さんの瓦礫を片付けている写真です。
分別が終わったごみなので小型のトラックで運び出しました。
下の写真の現場を12月に入ってから完全に片づけが終わったときの写真です。
2011年11月22日
この日は青森からの青年団ボランティアの協力により近くの現場3件をまとめて清掃しています。
瓦礫も10t分くらいを合計で運び出しました。
協力していただいた方々ありがとうございました。
避難道路の下にある床屋さんです。
壁を支える鉄骨が壁ごと流され曲がっています。
店内も瓦礫などで足の踏み場も無く写真は店内の瓦礫を外に出したところです。
釜石市鵜住居地区にある神社です。
ここは当時100人を越える人たちが非難していました。
写真は近くの津波で被災した中学校からもらってきたホワイトボードに地元の中学生などが復興の夢や願いをマグネットシールに書いてはってあります
2階の部屋で作業しているところです。奥の壁が無くなっています。
2階部分は津波によって壁が無くなり色々なものが散乱していたのを、みんなで協力して分別し土嚢につめているところです。
2011年11月21日
店内は冷蔵庫や机などが瓦礫の下敷きになったり変な形で挟まり人力ではなかなか動かず大人数人で運び出しをしました。
2011年11月20日
只越町にある中華料理屋さんです。
店内は冷蔵庫や瓦礫が散乱し大変な状態でした。
ここ最近不法投棄が増えてきたとのことで、清掃の依頼が来ました。
避難道路より浜のほうを見た写真です。
岸壁に上がった船や壊れた建物がだいぶ撤去されましたがまだまだ復旧には遠いですね。
只越町と浜町・新浜町の山側にある避難道路です。
この石は3月11日の津波の映像を撮影していた場所においてあります。
供えてある花も毎日地元の人が換えているようです。
土佐女子高水泳部の皆さんありがとうございます。
2011年11月16日
二階の部屋にあったピアノをクレーンで下ろしている所です。人力では危険もありなかなか難しい作業も重機があれば安全に作業を行えました。
資格を持っていても重機のレンタル代が払えないのでちょっと羨ましいですね。
2011年11月17日
色々なごみが混ざった土砂を人海戦術で分別し土嚢につめているところです。
天理教の人たちの協力もあって私達だけでは1週間以上かかる作業も数日で終わりました。天理教の人たち本当にありがとうございました。
この日、天理教のボランティアチーム28人の協力もあり当団体と合わせ30人以上のボランティアとクレーン付トラック等を使い大幅に作業が進展しました。写真は鋼鉄製の金庫を撤去しているところです。人力では全く動かなかったですが重機の力で撤去できました。
多くのボランティアの方々の働きにより何とか大きな瓦礫は撤去できましたが、まだまだ半分も終わっていない状態でした。
10人程度の人数では1週間以上かかるような仕事でした。
只超町にある酒屋さんです。三階建ての2階天井付近まで津波が来ました。
1階の店舗部分は津波により完全に破壊され店舗内の棚や壁のほかにヘドロと瓦礫で足の踏み場も無い状態でした。
2011年11月10日
釜石市と大槌を結ぶ山田線の大槌駅跡地です。
大槌駅は津波により駅舎の殆どが破壊され現在ホームの一部が残るのみの状態です。山田線自体も多くの駅が津波により破壊され復旧のめどがまったく立たない状況です。
最初は足の踏み場も無いほどに瓦礫が散乱し床もまったく見えないほどのヘドロで覆われていましたが、カリタスジャパンの方々をはじめ多くのボランティアの方の協力もあり綺麗になりました。建物自体の損傷は少ないので何かに活用できると復興にも良いのかもと感じました。
2011年11月6日
釜石市にあるドコモショップです。店舗の損傷が大きく8ヶ月以上放置されたままの状態でしたが、腐敗臭が酷く周りの飲食店から掃除の依頼があったので大家さんと交渉し掃除しました。
地元紙のみに広告せれていましたが色々な有名人が来てコンサートをしていってました。
サンプラザさんのほかにもイルカさんなど多くの有名人が来ていました。
私としては、人生の中でこんなに有名人を名まで見る機会はおそらくもう無いでしょう。
防波堤に打ち上げられてから7ヶ月やっともとあるべき姿になろうとしています。
船や車の対比を見るとこのクレーン船が如何にでかいかがわかりますね。
船体の先の部分は破れたままの様に見えますが、内側から鉄板を溶接して穴がふさいでありました。
船が無くなり近くの風景がまったく違うものになってしまい少し寂しい感じですね。
報道陣や地元の人が見守るなか少しずつ持ち上がっていきました。
あまりに大きくゆっくりなので止まっているようにしか見えませんでしたがゆっくりと動き続けていました。
釜石の津波の記憶がまたひとつ消えてゆきますね。
撤去を目前に控えた船の横をお祭りの神輿が通ってゆきます。
津波で半壊した建物と乗り上げた船の横を通るなんて、なかなか見れない感じですね。
この後神輿は船に乗り対岸の神社本殿に帰ってゆきました。
2011年8月30日
コンビニの前まで大潮で海水が上がり店内まで海水が着そうになりました。
配水管や側溝には魚が泳いでいました。
津波でもないのに津波の被害が大潮のたびに出ています。
大潮になると津波で破損した水門や雨水管や側溝から海水が入り込み町の中心部まで水が来ていました。
画像は水が引き始めたところです。
高い所で50cmぐらいの水位まで来たそうです。
町の中心部の瓦礫は殆ど片付き、復興してきてるように見えましたが一度建物の中をのぞくと当時のまま。
道路などは片付いたけど建物や細かなところはまだまだ手付かず。
地震の影響で地盤が下がり岸壁のあちらこちらにヒビが入ってしまったり穴が開いています。
2011年8月17日
地盤沈下によって海面と岸壁の高さが殆ど一緒になってしまいました。
釜石の海岸は80〜120cmほど地盤沈下したそうです。
防潮堤の水門前で撮影しました。
津波で枯れてしまった木に扉が引っ掛かっています。
なんとなくいい感じだったので撮影しました。
釜石市浜町付近
津波から四ヶ月ほどたちますが、中心部を除き全く手付かずの状態でした。
ここら辺は高いところで3階の天井付近まで津波が来たそうです。
周りにも家があったはずですが、そのほとんどが流されていました
海岸のほうに行くと大きな船が魚市場の横の岸壁に乗りあがっていました。
船は5000tクラスのコンテナ船で、桟橋で荷物を降ろした後に津波に流されたそうです。
最初に水色のドッグにぶつかり、その後湾内を迷走した最後にここに乗りあがって止ったとのことでした。
近くで見ると4階建てのマンションぐらいの大きさがありました。
釜石市内にある飲み屋街、通称親不孝通りで撮影しました。
細い通りは瓦礫で足の踏み場も無く、そんな中で店内の瓦礫やヘドロだしを行ってきました。
現状では家や店舗の中から道へ瓦礫を出すのみでその瓦礫の撤去は全くできない状況でした。
ここは2階の床上まで浸水したそうです。
通りは流れてきた家で向こうが見えませんでした。
釜石の中心部にある大町商店街から裏手通りのほうを向かって撮影しています。
津波によって破壊された電柱が無残です。
電柱からは人の背丈ほどのとこまで電線が垂れ下がった状態になっています。
電気は来ていないので安全でした。
町中至る所がこの状態で復旧にはまだまだかかりそうでした。
岩手県釜石市のぞみ病院の前です。
ここは病院の8・9階が避難所となっています。
病院も1階部分が天井まで浸水し現在でもライフラインの多くが遮断された状態になっています。
電気はディーゼル発電機を使いまかなっている状況でした。
トイレも使用できず高台の駐車場に仮設トイレが3つ置いてありました。
岩手県釜石市の釜石駅の周辺で撮影したものです。
線路を潜る国道45号線の排水ポンプ施設の近くに、流れてきた車がガードレールに引っかかっています。
岩手県釜石市の釜石駅の前で撮影したものです。
駅周辺も津波による被害を受け瓦礫が流れ着いている状況です。
駅周辺での津波の高さは1mほどだったそうです。